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岸野雄一『アンジェリークSpecial 2』評 | '97年6月6日号






■エクスプレス

ゲーム売場としてコンビニが定着!?
デジキューブは、同社が提携しているコンビニエンスストアにおけるプレイステーションとサターン本体、周辺機器、ゲームソフトの累計販売本数が、500万個を突破したと発表したぞ。
コンビニでゲームソフトの販売が始まったのは、昨年の11月15日から。

5月2日 ナムコのアダルト向け施設オープン 未成年者の入店はお断り!?
その名も“INTI渋谷”。



■ソフトウェアインプレッション

アンジェリークSpecial 2
ゲームの遊戯性は、それが賭けであることに由来している。シューティングだろうとRPGだろうと、あらゆる局面で立ち現れる「避けなきゃ。撃たなきゃ。話さなきゃ」といった選択肢の記号化と細分化によって成り立っているのだ。否が応でもいずれかに賭けなければならない、それが俺のゲームに向かう気力を萎えさせる理由といってよいだろう。俺にとっての遊戯とは、何も生産せず何も学習せず何も選択しない無償の行為を意味する。しかし今日、無償であることほど困難な行為もないだろう。その無償性になんの価値もないほど「そこまで何も求めないのは立派だ」といった何かに耐えているような美しき物語にされてしまうのだ。俺は単にそこが居心地のよい場所だからこそそこに止まりたいだけなのにね。どちらを選んでも、またどちらも選ばなくてもよいという“賭けの放棄”が俺にとっての本来の遊戯の原則であり、学習や労働といった生産行為と分け隔てる境界線になっている。
その“賭けの放棄”とはこと恋愛に関してもそうで、本来は無償の行為であるはずの愛し愛される行為が、とくに始まりと終わりにおいて賭けの形態をとってしまうことがよくある。こうした選択肢を思い浮かべることは、じつは過去を振り返るときにのみ有効なのであって、だから人は「あのときああすればよかった」とか「今度そんな目にあったらこうしよう」とか物語の形に変えて納得してしまうのだ。
というわけで、ゲームは見せかけの遊戯と思い、断じて目を背け、その楽しみを放棄し続けてきた門外漢の俺がトライしてみたのがこの『アンジェリークSpecial 2』である。もちろん恋愛をゲームでシミュレートできないことなど百も承知だ。だからこそ現実の恋愛ではしないような、いろんな人を相手にするという不埒なこともできてしまったのだ。本来の俺ならば愛する人ひとりだけ、つまりこのゲームでいうならリュミエール様を愛し抜いたはずなのに。いまになって、途中でデートに誘ってくるほかの守護聖たちを頑なに拒み続ければよかったのに、と後悔している俺は、見事に恋愛の罠にはまってしまったというべきだろう。その罠とはまた、女王を目指すか、誰かひとりをものにするか、という選択を煮え切らずに進めてしまったマルチエンディングの罠でもあるのだろう。
現実の恋愛では頑なに愛する人以外の誘いを拒み続けた俺が、ゲームではいとも簡単にデートの誘いを受けてしまったのは、愛するリュミエール様が急に冷たくなったりお熱になったりと気まぐれすぎたためなのだと思う。単純にいえば振り回されてしまったのだ。ここでこのゲームの特徴が明らかになる。守護聖たちは身勝手なのだ。まるで女のように。
恋愛は時と場合によって追う役割と追われる役割に分担されがちだ。それは俺から見れば単なる駆け引きであって愛し合う行為ではない駆け引きには無償とは言い難い選択肢が浮上してしまうからである。じつはこのゲームが女の子の絶大なる支持を集めている理由がここにあるのではないかという気がする。女の子は登場する守護聖たちと擬似恋愛したいのではなく、身勝手に振る舞う守護聖たちを相手に賭けをしたいのだ。つまり罪の意識を持たずに駆け引きをしたいのである。悪いのはみんな男のせいにすればよく、自分は安全圏にいられるのだ。そういう身勝手さを許してくれる恋愛の物語という環境が彼女たちを魅了してやまない理由なのだと感じた。
俺はこのゲームで駆け引きを楽しんだ女の子とは付き合う気がしない。俺に何かの選択を迫るような女は、俺が考える遊戯の参加者とはなり得ない。俺はただ無償に君と愛し合いたいだけなのだ。
(岸野雄一)

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